穏やかな場所(中心)に自分自身を置いてあげること。
真理とは、この世が保つ・存在する形です。
その形と仕組みを自身に確実に渡せることが出来れば困ること等は無くなってきます。
真理という構造の中心に居れば、
自身を正確な位置に置くことが出来ていれば、そこはどんな苦難も穏やかに果て生かせることが出来ます。
中心は、力を使うこがありません。
中心は、プラスマイナスが存在せず・結実がなく勝負の発生がありません。
中心は生死の堺地の味わいがありません。
中心とは、どんな苦難も無難に変わります。
人は自分自身をどこに位置させるかで、見える世界が変わります。
ビッグバンとは中心が弾けた状態と筆者は計算しています。
(個人を超える全体・大きくは、物質が出来ているということは起点に留まっていないということ。だから苦難があることは当たり前であるということ。その中の小さなビッグバンと収縮は絶えず個人に起きており、だから私は個人責任として私自身を基点に置くことを心掛ける。)
自身以外の人々を他人と感じてしまうことは、知らず知らずの内に苦痛とストレスとなっています。
原理と動力を知れば、本当は難・苦痛などは生まれないのが物質的な構造だと考えています。
筆者の計算です。
様々な宗教が存在しますが、真理を忘れるという無知な残酷さを感じます。
真理を抜きにして、音を形にすることは恐ろしいことです。
真理を確実に伝える事はとても大切な事です。
勘違いをさせる言葉を伝える事は間違った社会を造り出す重大な責任があります。
こんなになってしまって。と思ってしまうことがあります。
様々な宗教をテレビで拝見する機会がありますが、どんな噂が流れたか手に取るように解ります。
今には必要ないことや今でも必要なこと。
こんな話しをしたから黒服の集団になってしまったんだろう。(黒に身を隠す精霊達の話し。太古民族…)
結婚するまで手を触れる事も禁止。(それは常在菌は今はどこにでもありふれているのに)
胸に十字架を刻む話し。(真理を胸に刻むこと)
一人でも勘違いをすれば意味がありません。