未知 NaKi 道【奏白】SOUHAKU

生命がある意味を筆者なりに書き残します。私は見えない世を心に映し見える世をしっかりと眺めています。苦しみの無い世へと。

最高の幸せを手にすること。

欲しいものや、やりたい事ばかりがある。

やらなければいけないことが出来ない。



貴方はどちらに偏っていますか。


人はどちらに偏っても執着が起こります。



筆者は、日々の中で確認することがあります。

それは
「今、全てのものを突然手放す事になっても何も思わないか」と言う自分自身への問い掛けです。

日々を積み重ね、蓄積した物はたくさんあります。

そのひとつ、ひとつに愛情を注いだ事ば事実でしょう。

その傍らで、生涯の終わりを迎えていることも事実です。


私は、今、私を含む物が突然無くなっても大丈夫かな?
「うゎぁー。無くなっちゃった!ま、いぃか。」と、瞬間的に言うことができるかな。


それを自分自身に問い掛けた時、身の周りの物ばかりでなく、人物ばかりでなく、死 間際に起こる人生の失敗の経験が走馬灯のように蘇ります。



執着はどこから起こるのか。


それは、きっと、自分の経験が生かされていない事から起こり、失敗を成功と結び付けないことから起こっていると日々に思うのです。


ふと、過去を振り返った時、ふと、嫌なことが頭を過ぎった時、貴方の胸はホッとしていますか?
それとも落ち込んでいますか。



人生は、やらなければ成らないこと・やりたいことの両立の中心で新たな自分自身を日々生み出すことを欠かさないことが大切、と思います。





繰り返される。
それが生命だから。


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人は幸せである時、幸せだと感じる事は少ないと思います。

人は同化するものを見つけ出しにくいからです。

何も胸に受けず日々が終われば、何よりの幸せの中に浸っています。

愛とは無。
皆が同化し、他人が私であり、何も無く感じること。



だから、

平凡が素敵よね。
何も思わない事は綺麗な事って筆者は思うよ。

(この言葉の理解はかなり個人差があり、誤解が出やすい言葉と思います。)
(日々の個人行事を平然と熟しながらもね何の思いの陰陽が発生しなければってことです。)