タイトル思い浮かばす。筆者の日常
昨日は来た兜を床の間に上げ手作り座布団におすわり頂きに筆者は正座で深々く挨拶をしました。
筆者の家族の姓、末の子の名前を思い浮かべながらお伝えしました。
この行動から、贈物の、のし紙の大切さを知りました。
贈物は、贈り主・受け取り主をきちんと定める必要があることも同時に知りました。
これをきちんと交わすことにより、物は迷いなく指名を果たせるのだと思います。
よく、アニメ映画でも物を大切にするようにというメッセージを秘めたストーリーがありますがこのようなことからだと思います。
この世に存在・出現するものは、それぞれの使命・役割を果たせば自然的現象により成仏を果たす仕組みとなっています。
生きる上で真っ当すべき行事です。
今日は珍しく、内職を進めておりません。
思い付くものがありません。
思い付きとは、誰かの思いが自分に寄り付き、それを感じとることによる閃きです。
これも自然的現象です。
あとは、自身が迷いない空間に存在すれば思い付きにより発生した物は、勝手に時間差を経て思いを発した点からの受け取りが発生します。
仕組みがこのような事のようですから、やるべき行事を面倒とは知らずにマイペースにやりながら生きる事が自分を楽にさせるという裏技です。
普通にしていれば、誰もが幸せに成ります。
日常での霊的出来事
昨日、家族が五月に飾る兜を持ち帰りました。
新品ではありません。古い、いつの物かはわかりません。最終的に我が家にたどり着いたようです。
かなり重いもので頑丈な物ですが…
昨夜内職をしていた時のことです。
部屋のどこかから、ポップコーンの弾ける音が幾度もバチバチと鳴るのです。
まぁ、必者は「もー。なに?」みたいな感じで横耳に聞きながら内職を進めていました。
するとですね、今度は気配を感じ始めました。
気配の方向に目を向けますと、そういえば兜が置いてあった訳ですが。
目のない兜と、幾度も目が合う訳です。
その感覚は「生きている」感覚で、内職を進めながら、筆者は生まれて始めて物と会話をしました。
頭がおかしいようでしょう?
筆者自身驚いていますし、少し雑には扱えない恐れ入るような感情が湧いてきます。
兜は、例えますと、刀を四方八方を向いて滅多切りするような乱暴な思いをはなっており「私は役に立つことなく捨てられた」というような思いを伝えてきます。
これはもう、捨てる訳にもいきませんし、追い出すことも酷でならない状況に追いやられました。
昨日、末っ子が何故かこの兜のツノに引っ掛かり身動きが取れなくなっていました。
そして、ふと、数寝を前に筆者は兜を買おうかと迷っていた時があったことも思い出しました。
筆者は、自身に過ちの犯しを受けるような生き道を与えてはいないと思いますし、これも、縁かと思うこととし一旦状況を見る為に兜をまつることとします。
筆者は今まで知りませんでした。
兜は、お守の役目を背負うのですね。
まさか、物が生きるとは。
筆者は兜に伝えてみました。
「ここで役立って尽きてはいかがですか。」
まだ念が強すぎ、我が家との馴染みがありません。
粗末に扱えば何かあるか、足で蹴飛ばせば、足を切断する事故にでも合いそうな気配です。
それより以前、別の神様もおいでになっており、日常の努力を欠かすことは許されませんので、少し投稿がおろそかになっております。
何卒。
音とは何を指し示すのでしょうか。
音は聞こえるのでしょうか。
それとも、感じることにより聞こえる錯覚を起こすのでしょうか。
そして、聞こえる範囲を人は音と呼ぶのでしょうか。
象は超低周波音により会話をすることが解明されているそうです。
数時間前に、奥底の地盤がズレる音を察知しています。
爆音ではありませんでしたのですが、少し長い間ズレるような鈍い音を感じましたので表面のどこかに波打ちが伝わり地震に繋がる可能性を思いました。
中規模とは思いますが、少し長い範囲に渡る音のような感覚を受けました。
気になる域は日本列島中心より少し東北寄りに渡り広範囲です。
西まで響く可能性も感じます。
地表から離れた奥底からの音ですので数時間~数日かけて表面で動きます。
深夜から一週間以内を警戒します。
天才児が何故生まれるか。筆者の推理。追記あります。
筆者は性教育で、女性の体は月経から排卵に向けて子宮の中に栄養素をたくわえて、赤ちゃんを育てる準備をしていると教わりました。
しかし、筆者は月経が始まり終わると、体から汚れたものが一気に出てすっきりするような感覚がいつもあります。
筆者は、栄養素とは、不純物を敗退する要素のことを示していると思います。
そして、個々の貯えた不純物に対する栄養素が十分に補わえられた状態で受精が成立することにより、時に天才児と呼ばれる正式な順序を得た個体が発生すると思います。
人が嫌だとか、辛いとか、苦しいなどと思うことは当たり前のことです。
誰もが足りないものを補おうとすることは、順序であるからです。
誰もが誰もの思いを痛感し、いずれは誰かの思いは私の思いであったことに気づくまでは、誰もが人生におきツラミ、クヤミを身に受けます。
陰陽の両立とは儚いものですが、我々はその儚さを腹一杯に食べられないからこそ存在する命です。
筆者の思いが、この文章で伝わりますでしょうか。
追記です。
計算をします。
これより先、地球の破滅を護るための働きが強くなり、天才児が生み出される頻度が上がってくると予想をしています。
しかし、現在の食の状況では無駄な排出作業が間に合わない状況にあるかと思います。
そうなれば、物質的反動としまして、今後食の供給にひとつ難が起きる可能性があります。
これを難無くするための解決がひとつ必要となります。
筆者なりの言葉では、質素・腹八分目は体に良い影響がある。としか言葉としては置き換えることが出来ません。
無駄を入れればそれを出す栄養素が必要であり、非常に大食らいになります。
肥満が増えているのもこのような影響が裏にあるかもしれません。
ともかく今は、無駄な物を排除しようとする働きが非常に強い段階と思いますので今後の影響を避けることが出来ればと思います。
筆者の日常。節分前。
数日前でしょうか。
突然豆を煎って玄関の榊の下にお供えしたくなりました。
筆者は、自分が行いたくなる行動の理解を得る為に、自分の行動を見守っていました。
今朝です。
また、豆を煎りたくなりました。
煎った豆を熱いうちに、先日供えた豆と入れ替えました。
冷めた古い豆は容器に入れ、誰も触らない高い場所にしまいました。
ん?
これは?
そろそろ節分が近づいていますが、何か関係があるのかな?
まだ、先はわかりませんが、豆まきの真相がわかりそうな動きになり始めています。