真理とは見えない存在です。
真理とは、信じる・信じないという観点ではなく、生命に刻まれている基礎的な仕組みです。
嘘であると思う個人の思想や本当っぽいと揺さぶられる個人の感情とは関係がないものです。
真理とは生命そのものが現れる仕組みとして、それがなければ生命の誕生はないものとして備わる根源発生の仕組みです。
それは生命が無くしては存在のできない備わりであり、私達が生きて行く基本の形であり、ネットワークの元素です。
私達はネットワークにより繋がっています。
見えるもの、見えないもの全てが生命であり精密に果て目覚める存在です。
輪廻転生を交わす(+の中心)地点に自分自身を置くこと。
今起こる物質的現実を、何に向け発生しているかを理解し、冷静に対処出来る人は輪廻転生を交わす点に立ちます。
その点に立つ人は、難を涼しく感じ生き甲斐に感じ、人生を思う存分に楽しみます。
貴方は今、どの地点に自分自身を存在させていますか。
今日の空をどのように感じますか。
無限の幸福を感じ、それを生かし受け取る点に立てていますか。
古代遺跡…ピラミッド…方角…点在地…
真理を知るからこその制作だと、私は感じています。
難を捨てたなら、幸を掴みます。
私達は、様々な難(遺伝子の悪い癖から成る悪夢)を経験します。
1番の幸せ(皆が一塊)ではなく、このようなバラバラの状態で幸せへの違和感を感じることは当然のことであり、苦難は日課であると筆者は思っています。
苦難が押し寄せるという機会は真の幸せへの道筋でしかないと筆者は思い、人々は苦難を乗り越え、後波のように押し寄せる幸福感を誰もが感じると思っています。
目には見えない同じ大きな目標地点に向けて誰もが歩き、目に見える小さな幸せを個々は手にし感じているのが現実世界だと、私は考えています。
どれだけの幸せを経験できるか、この世ではクヨクヨしていては始まらないことが山積みにあります。
悲しくて、辛くて良いと思います。
その代わりに、それ以上の幸福を手にしなければ損だと筆者は思っています。
けれど、本当は、誰も苦難を抱えている訳ではないよ。と言うことを筆者は伝えて生きたいです。
筆者は、幼い頃から万華鏡を覗く事が大好きです。
同じ素材なのに一秒降ったら、また綺麗でしょ?
幼い頃は「不思議だなぁ、綺麗だなぁ、何回も綺麗が止まらない!」という感じでやめられませんでした。
今は万華鏡ではなく、少し違う視線ですが、綺麗と思う角度から沢山の方々を眺めています。
筆者は、ボロボロの服を着た道端で悩んでいる方でさえ、宝石の原石を見たように感じることもあります。
それは幼い頃に、万華鏡を分解した衝撃の真逆みたいです。
本当は綺麗に成る前を、人的目線でズタボロにしてしまうことは悲しく淋しい事ですね。
筆者は見た目で人を判断することが苦手です。
最高の幸せを手にすること。
欲しいものや、やりたい事ばかりがある。
やらなければいけないことが出来ない。
貴方はどちらに偏っていますか。
人はどちらに偏っても執着が起こります。
筆者は、日々の中で確認することがあります。
それは
「今、全てのものを突然手放す事になっても何も思わないか」と言う自分自身への問い掛けです。
日々を積み重ね、蓄積した物はたくさんあります。
そのひとつ、ひとつに愛情を注いだ事ば事実でしょう。
その傍らで、生涯の終わりを迎えていることも事実です。
私は、今、私を含む物が突然無くなっても大丈夫かな?
「うゎぁー。無くなっちゃった!ま、いぃか。」と、瞬間的に言うことができるかな。
それを自分自身に問い掛けた時、身の周りの物ばかりでなく、人物ばかりでなく、死 間際に起こる人生の失敗の経験が走馬灯のように蘇ります。
執着はどこから起こるのか。
それは、きっと、自分の経験が生かされていない事から起こり、失敗を成功と結び付けないことから起こっていると日々に思うのです。
ふと、過去を振り返った時、ふと、嫌なことが頭を過ぎった時、貴方の胸はホッとしていますか?
それとも落ち込んでいますか。
人生は、やらなければ成らないこと・やりたいことの両立の中心で新たな自分自身を日々生み出すことを欠かさないことが大切、と思います。
繰り返される。
それが生命だから。
人は幸せである時、幸せだと感じる事は少ないと思います。
人は同化するものを見つけ出しにくいからです。
何も胸に受けず日々が終われば、何よりの幸せの中に浸っています。
愛とは無。
皆が同化し、他人が私であり、何も無く感じること。
だから、
平凡が素敵よね。
何も思わない事は綺麗な事って筆者は思うよ。
(この言葉の理解はかなり個人差があり、誤解が出やすい言葉と思います。)
(日々の個人行事を平然と熟しながらもね何の思いの陰陽が発生しなければってことです。)
自分を縛ることをやめて生きます。
人は縛り(執着)という決め付けに重さを感じ溺れます。
私はこうであることも、貴方がこうであることもありません。
全ては、自分の位置による経験の錯覚です。
こうであるという、縛りや執着から自分を解き放つことが大切です。
全ては段階による錯覚です。
貴方は今、どこで迷い振り回されているのですか?
迷いがない場所は真ん中だけですよ。
本当は、何も決まってなんかいないよ。
始まりという、終わりに向かって流れ動いているだけ。
平等であることのみが正しさです。
筆者には見えぬものを、見て・強制のようにわかって欲しいと思う欲望はありません。
ですから、このblog等も筆者の思いの行き先がなくなれば消去をする予定です。
ただ、筆者がお伝えしたいことは、誰も苦しむ必要がないと言う事です。
真理は、貴方にあります。
私にあります。
誰かにもあります。
そう。
生命全てにあります。
誰かにはあって、私にないものは真理ではありません。
真理とは平等な仕組みです。
迷い道の経験は最後の手段に起こります。
争いは、解り会えないことにより起こります。
理解が難しいから起こります。
信用に至らないから起こります。
けれど、
真理という、見えない構造があるということを伝えること自体が、見えない人々にとり失礼なことかと思います。
見えないものを、理屈なく、信じて貰いたいなどと伝えること自体が間違っていると思うことがあります。
では、これをこの先、どのようにして取り戻せば良いのでしょうか。
生涯は誰もが終えるが、死など真理に基づけばそれは幸せな道を進んでいるんだよ。
などと、口にしても苦しみや悲しみに浸かっている誰が救われますか。と、このような投稿をしながらも、筆者は思う時があるのです。
どっぷりと、悲しみや苦しみ、怒りや憎しみに浸るのであれば、誰の言うことも耳に入らない・解らないのであれば、誰かに助けを求めるなどせずに、自分自身に耳を傾ける事が大切な事です。
このようになっている時点で、貴方は他の誰かに答えなどないことを無意識に知っており、自分の中の答を探している最中だからです。
生まれ出れば、誰もが目の前の出来事を熟すしかありません。
人生は、それだけ出来れば上等です。
それが誰もが抱える人生です。
真理とは、消えることがありません。
それだけ。の上等の生活をしていれば、誰もが遅かれ早かれ突き当たります。
そのような方には、きっかけが必ず与えられます。
その機会に掴むことも、大切な経験です。