難を捨てたなら、幸を掴みます。
私達は、様々な難(遺伝子の悪い癖から成る悪夢)を経験します。
1番の幸せ(皆が一塊)ではなく、このようなバラバラの状態で幸せへの違和感を感じることは当然のことであり、苦難は日課であると筆者は思っています。
苦難が押し寄せるという機会は真の幸せへの道筋でしかないと筆者は思い、人々は苦難を乗り越え、後波のように押し寄せる幸福感を誰もが感じると思っています。
目には見えない同じ大きな目標地点に向けて誰もが歩き、目に見える小さな幸せを個々は手にし感じているのが現実世界だと、私は考えています。
どれだけの幸せを経験できるか、この世ではクヨクヨしていては始まらないことが山積みにあります。
悲しくて、辛くて良いと思います。
その代わりに、それ以上の幸福を手にしなければ損だと筆者は思っています。
けれど、本当は、誰も苦難を抱えている訳ではないよ。と言うことを筆者は伝えて生きたいです。
筆者は、幼い頃から万華鏡を覗く事が大好きです。
同じ素材なのに一秒降ったら、また綺麗でしょ?
幼い頃は「不思議だなぁ、綺麗だなぁ、何回も綺麗が止まらない!」という感じでやめられませんでした。
今は万華鏡ではなく、少し違う視線ですが、綺麗と思う角度から沢山の方々を眺めています。
筆者は、ボロボロの服を着た道端で悩んでいる方でさえ、宝石の原石を見たように感じることもあります。
それは幼い頃に、万華鏡を分解した衝撃の真逆みたいです。
本当は綺麗に成る前を、人的目線でズタボロにしてしまうことは悲しく淋しい事ですね。
筆者は見た目で人を判断することが苦手です。