迷い道の経験は最後の手段に起こります。
争いは、解り会えないことにより起こります。
理解が難しいから起こります。
信用に至らないから起こります。
けれど、
真理という、見えない構造があるということを伝えること自体が、見えない人々にとり失礼なことかと思います。
見えないものを、理屈なく、信じて貰いたいなどと伝えること自体が間違っていると思うことがあります。
では、これをこの先、どのようにして取り戻せば良いのでしょうか。
生涯は誰もが終えるが、死など真理に基づけばそれは幸せな道を進んでいるんだよ。
などと、口にしても苦しみや悲しみに浸かっている誰が救われますか。と、このような投稿をしながらも、筆者は思う時があるのです。
どっぷりと、悲しみや苦しみ、怒りや憎しみに浸るのであれば、誰の言うことも耳に入らない・解らないのであれば、誰かに助けを求めるなどせずに、自分自身に耳を傾ける事が大切な事です。
このようになっている時点で、貴方は他の誰かに答えなどないことを無意識に知っており、自分の中の答を探している最中だからです。
生まれ出れば、誰もが目の前の出来事を熟すしかありません。
人生は、それだけ出来れば上等です。
それが誰もが抱える人生です。
真理とは、消えることがありません。
それだけ。の上等の生活をしていれば、誰もが遅かれ早かれ突き当たります。
そのような方には、きっかけが必ず与えられます。
その機会に掴むことも、大切な経験です。