高砂人形の夢。
いつの前頃だったでしょうか。
また夢のお話しですが、筆者は夢の中でこの世にはありえないほどの巨木を訪ねていました。
その巨木は家のような構造で、筆者はひとつの部屋に向かうために一生懸命登りました。
到着した部屋には、小さな小さな神様方(地の守り神様)が布とホコリを被って眠っていました。
筆者が「起きる時が来たよ」と、布とホコリを払いましたら、ワヤワヤと可愛いらしい声で「起きる時が来た。みんな。きたよ。」というような雰囲気で、出番を嬉しそうにしていたんだろう、と、思える感じでヒョイヒョイっと起きていました。
最近ではその夢をよく思いだします。
後に、インターネットで、その巨木を守る番人と、うり二つの人形を筆者は見つけます。
その人形の名前は高砂人形。
古い飾りで、ひとつだけ、本当によく似たお顔の人形を1000円程で買いました。
ただ、今も不思議に思います。
何故、番人さん達が、あの細々した神様方を起こさなかったんだろう。
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昨日、投稿しました大自然の動きですが、おそらく本日の愛媛県中予の動きで間違いないかと感じています。
近かった為に少し大きめに感じ取っていたと思います。
昨日の霊的に感じる震動の質が、弓矢をひいた時の質のような感じを受けておりましたので、今後は中央構造線上で跳ね返りがないようにと思っています。
現段階では、弓矢をひく状態で留まっている感覚を受けています。
マグマの煮え立ちを感じています。
その威力は、東日本大震災の時に受けていたものと大差ないように感じています。
この力が、良い場所への流れに繋がるように。と思います。
水を求むものがあるなら、先に水を与えます。
力をあり余せているなら、先に放散します。
素直に自然体に霊的直感で動き働く人々が増えれば、大地は優しいものです。
自分に許され自身が満足を得ること。と、今日の夢。
私の満足は、どのような誰もが知ることはありません。
いくら親しくても。
その確認は自分自身でしか行えません。
私達は生命の中の ひとつ として成り立っており「生命のひとつとして相応しい私であるか」を、自分(心)で自身(脳)を常に確認に落とし、問い掛けています。
私がひとつとして成り立てていないと無意識に知れば、幸せから遠ざかり、この目で見渡す世界はどんよりとし、幸を映すことはありません。
これを、人々は「ストレス」と表現をしているようなのです。
私が満足できているか、いないかは、私自身で知り、私自身が決めることです。
ストレスは、誰から与えられるものでもありません。
もし、ストレスを受けるなら、ストレスを放散している方に同調しようと、分かりあおうとしてあげている。分かち合おう。ひとつになろうとしているのだと思うのです。
どのように私を保つのか。全ては私次第です。
満足感 は誰にも関与されない、出来ない、私がだけの感情です。
満足を得た人々の姿とは、充実した人々の姿とは、なんとも言えない清々しさを感じます。
このような方々が増えるにつれ、それに同調しようとする人々が増えるに連れ、世界は輝き始めるように思います。
私達はひとつだけれど、一人ではありません。
隣の方を幸せに引き寄せる事で、未来は救われると本当にそう思っています。
今朝は夢から離れられず、寝坊をしてしまいました。
スーパーで買い物をしていたのですが、握るお金が見慣れないお札で「え?何?このお金?」と母に問いかけていました。
母は言うんです。
「このお金ね、元々千円札なんだけど、750円の価値しかないの。」
お札を確認しましたらアメリカのお札でした。
私は母に言ってました。
「え?ややこし過ぎる!1000円札なのに750円って、じゃぁいくら払えばこれ買えるの?計算できない…汗」
…お金の計算が苦手な夢の中の筆者はパニックになり…買い物をしていましたら、現実の筆者が夢の筆者の頭上から現れ「あ。これは記憶しないといけない、覚えておかないと」と思った瞬間、現実に引き吸われて、いつもの筆者として目が覚めました。
覚えておかないといけないと言いましても、筆者は伝え役のはずだと思います。
こんな夢を見たよ。と言うことを、ここに残して置きます。
夢の世界はどんよりとしていました。
未来の私は私が守っています。
未来は変えることが出来ます。
(脳の整理が完全に終わった後に経験することは、未来を修正するために働いていると筆者は思っています。生物は生命を守ろう、維持しようとしているとも感じています。)
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今日は長い霊的震動を受けています。
1~2週間程度、自然災害に注意をしています。
巡り会いながら。
私はひとつですが、ひとりではありません。
私は弱いけれど、負ける訳には生きません。
大切な存在を捨てる勇気などないからです。
いくら死を考えても、死は私を救いません。
まだまだ、不十分な証拠です。
私に何ができるだろう。
わからないから、やることだけ終わらせるしかない。
それで良いと思います。
それが、良いと思います。
私は機会・喜界を与えられています。
見えないけれど、巡り会う機会を与えられ、いずれ喜びを分かち合う世界へ入る準備を調えています。
苦悩は幸せへの鍵。分かち合う。
「あの方の分まで生きよう」
大切な存在を失うと、多くの人々はそう思うと思います。
多くの困難は私だけの為ではありません。
そう思いましたら、心は晴れやかです。
私はたくさんの方々の供養に励みたい。
今受ける辛さは、私だけの為に起きているのではない。
生命はネットワークを組み、試練に立ち向かいます。
ひとつに戻るために、欠かすことの出来ない思いです。
自分自身を理解すること。
私達は心理という、全てに共感を得る目標に移動している最中です。
その移動中の景色を目の当たりに、私以外を他人と思い非難をします。
それどころか、分かって欲しい欲望を押し当て、互いが互いを理解出来ないことへの違和感から争いまで起こします。
苛立ちとは、違和感を理解できないことから起こります。
違いとは個性であり、それぞれに大切さが詰まってるのに。
嫌な感情が自身を襲った時「今の自分はどのような違和感から、自身にストレスを与えているのか」を1番に考える事が大切。と、思います。
知恵を取得することは、誰もが人生の最大の課題かとも思えます。
真理を解答に生み出す知恵は、未来に幸を降らせると、筆者は思っています。
今日、また、不思議な声を受けました。
「貴方と私は良く似ているわ。私が旅立つ(こちらの世から離れる時)まで、貴方と一緒よ。」
筆者に、これから何が起こるか等知りませんし、わかりません。
ただ、思うことは、日頃の感情から生まれる努力は、きっと誰かの役に立っている。ということです。
私は私の為になど存在しません。
人は自分に目覚めるまで、趣味も変わりますし、気持ちも変わります。
それに向き合い、一生懸命で良いです。
それも供養、大切な事です。
ひとつ、ひとつ終えることが出来れば順調です。